何故「ナルシズム」「自己顕示欲」を人々は許されない?
こんばんは。
まぁ今回はいつもの怪文書ですね、タイトル通りのことをふと思ったんで。
まぁ今回はいつもの怪文書ですね、タイトル通りのことをふと思ったんで。
何を唐突に、というと。
根本的に、人というのはどこかしらで確実に「自己顕示欲」と呼ばれるものを持っているはずなのではないだろうか、
ではなぜ、それを否定する動きが強いのだろうか……ということを、ふと考えたのである。厨二病にして暇人もいいところだ。
はじめにこんな疑問を抱いたのは、バイト中のことだった。
作業も単調なのと、金を貰っておいて言うのも何だが所詮バイトの立場だ。色々物思いに耽りながら作業している訳だが、そんなさなかに思ったのだ。
趣味である音ゲーをその日やり終えて「今日はこんな記録でした~」という、リザルト画面のスクショをSNSに載せる。まぁ、よくある光景だ。
というか別に音ゲーに限らず、今日はこんなことが「出来た」、といういわば成功報告であればなんでもよい。
こうした成功報告をSNSなど「オープンな場所」において公開する行為というのは、突き詰めればどこかしらにナルシズム的心理が働いているのではないか、という疑問を抱いたのである。
そもそも成功報告を「オープンな場所」に貼り付けるという行為はどういうものか。私なりの意見としてはこうだ。
今、「自分の中でのみ完結し、自分によるなんらかの意図で他者に公表・拡散が行われない限り他人の一切関与しない満足」を「自己完結性満足」と便宜的に呼ぶことにする。
仮に自己完結性満足のみを目的として音ゲーをやるならば、スマホの中のアルバムに入れておくだけでいい。
わざわざ「SNSを開き、少々時間の掛かる画像アップロードを経て公表する」という行為には、こと「自己完結性満足」を得る……音ゲーの場合新記録を目指すという行為であるが、ことこれにおいてはっきり言って一切の合理性がない行為である。
そんな暇があるなら、攻略wikiを見に行くなりYoutubeの手元動画等を観に行くなり、休憩して次のプレイに備えるなりした方が絶対に有意義である。
では、そんな合理性のないことを敢えてする理由は何か。
それは、「私にはこれがこのくらい出来るぞ」という、確かな自己顕示欲が存在しているからに他ならない。そしてこれは、音ゲーに限ったことではない。全ての「成功体験と呼べるもの」がそうだ。己の実力を他人に顕示したいというこころの現れ。それが確実に誰もに存在する。そうした打算は誰もに確実に、少なくともそうした報告をSNSなど不特定多数が見ることが出来る場所に広めるのであれば、その際に働いている全心理のうち1%は確実に働いている。
ちなみにこの記事を敢えて「非公開」にはしていないのも、そういう理由だろう。
今、自分の自覚できる範疇でこの理由を述べれば「誰かにこの考えを理解してもらいたい」という考えがある。
別に万人に理解してもらう必要はない。分かる人にだけ伝わってくれればよい。いや、もっとだ。分かる人に伝わってほしい。
そう考えているが、一方で、どこかしらにそうした「打算がある」のだろうと云われてもそれを否定しきることは正直難しい。
そう、誰にでも確実にそれは「存在する」。はずなのだ。
さらに根本的な話として、動物には「生存本能」と呼べるもの(尤も、今では「本能」という言葉は専門的に齟齬があるらしいが)が存在する。それがどのように表れるかはその動物によるだろうが、個々が「生存」するためにこういう行動を取ろうとするという何らかの行動原理であることはどの動物においても同じだ。そしてそれが「集団生活を前提として繁栄している」人間であれば、「あらゆる群れから離れてしまうこと」はその行動原理から外れているものであり、したがって知らず知らずのうちに人はだれもが忌避しようとすることだろう。
群れから離れぬようにする。それに必要な行為としては、やはり「自分の存在を忘れられない」つまり「自分が此処に在る」ことを示す何らかの行為が必要なはずなのだ。
しかし、それは他の欲よりも人の手によって否定されやすいように私は思う。
食欲よりも、睡眠欲よりも、下手をすれば性欲よりも否定されやすい。
これは、何故なのか。
押し付けがましいから? か?
違う。
誰もそれを押し付けていなかったとしても、人は「なんとなく」で、イメージで「自己顕示欲」を批判したがるのではないだろうか。
「自己顕示欲」「ナルシズム」という言葉に対し自分の持つイメージだけで、簡単に批判したがるのではないだろうか。本当は誰もが少なからず持っているものだと言うのに。それも知らず批判したがるのではないだろうか。
そしてこれは、自己顕示欲、ナルシズムに対してのみではけしてないように思う。イメージだけで叩く、果たしてそれをしたことがない人間は存在するのか。
ともすると、人にはいわば「他己批判欲」と呼べるものが存在するのかもしれない。
他者を批判せずにはいられない、そんな欲がどこかに存在しているのかもしれない。
……なんてことをここまで書いて思ったので、ちょっと「他己批判欲」については今日のバイトのときにでも色々考えてみようと思う。
根本的に、人というのはどこかしらで確実に「自己顕示欲」と呼ばれるものを持っているはずなのではないだろうか、
ではなぜ、それを否定する動きが強いのだろうか……ということを、ふと考えたのである。厨二病にして暇人もいいところだ。
はじめにこんな疑問を抱いたのは、バイト中のことだった。
作業も単調なのと、金を貰っておいて言うのも何だが所詮バイトの立場だ。色々物思いに耽りながら作業している訳だが、そんなさなかに思ったのだ。
趣味である音ゲーをその日やり終えて「今日はこんな記録でした~」という、リザルト画面のスクショをSNSに載せる。まぁ、よくある光景だ。
というか別に音ゲーに限らず、今日はこんなことが「出来た」、といういわば成功報告であればなんでもよい。
こうした成功報告をSNSなど「オープンな場所」において公開する行為というのは、突き詰めればどこかしらにナルシズム的心理が働いているのではないか、という疑問を抱いたのである。
そもそも成功報告を「オープンな場所」に貼り付けるという行為はどういうものか。私なりの意見としてはこうだ。
今、「自分の中でのみ完結し、自分によるなんらかの意図で他者に公表・拡散が行われない限り他人の一切関与しない満足」を「自己完結性満足」と便宜的に呼ぶことにする。
仮に自己完結性満足のみを目的として音ゲーをやるならば、スマホの中のアルバムに入れておくだけでいい。
わざわざ「SNSを開き、少々時間の掛かる画像アップロードを経て公表する」という行為には、こと「自己完結性満足」を得る……音ゲーの場合新記録を目指すという行為であるが、ことこれにおいてはっきり言って一切の合理性がない行為である。
そんな暇があるなら、攻略wikiを見に行くなりYoutubeの手元動画等を観に行くなり、休憩して次のプレイに備えるなりした方が絶対に有意義である。
では、そんな合理性のないことを敢えてする理由は何か。
それは、「私にはこれがこのくらい出来るぞ」という、確かな自己顕示欲が存在しているからに他ならない。そしてこれは、音ゲーに限ったことではない。全ての「成功体験と呼べるもの」がそうだ。己の実力を他人に顕示したいというこころの現れ。それが確実に誰もに存在する。そうした打算は誰もに確実に、少なくともそうした報告をSNSなど不特定多数が見ることが出来る場所に広めるのであれば、その際に働いている全心理のうち1%は確実に働いている。
ちなみにこの記事を敢えて「非公開」にはしていないのも、そういう理由だろう。
今、自分の自覚できる範疇でこの理由を述べれば「誰かにこの考えを理解してもらいたい」という考えがある。
別に万人に理解してもらう必要はない。分かる人にだけ伝わってくれればよい。いや、もっとだ。分かる人に伝わってほしい。
そう考えているが、一方で、どこかしらにそうした「打算がある」のだろうと云われてもそれを否定しきることは正直難しい。
そう、誰にでも確実にそれは「存在する」。はずなのだ。
さらに根本的な話として、動物には「生存本能」と呼べるもの(尤も、今では「本能」という言葉は専門的に齟齬があるらしいが)が存在する。それがどのように表れるかはその動物によるだろうが、個々が「生存」するためにこういう行動を取ろうとするという何らかの行動原理であることはどの動物においても同じだ。そしてそれが「集団生活を前提として繁栄している」人間であれば、「あらゆる群れから離れてしまうこと」はその行動原理から外れているものであり、したがって知らず知らずのうちに人はだれもが忌避しようとすることだろう。
群れから離れぬようにする。それに必要な行為としては、やはり「自分の存在を忘れられない」つまり「自分が此処に在る」ことを示す何らかの行為が必要なはずなのだ。
しかし、それは他の欲よりも人の手によって否定されやすいように私は思う。
食欲よりも、睡眠欲よりも、下手をすれば性欲よりも否定されやすい。
これは、何故なのか。
押し付けがましいから? か?
違う。
誰もそれを押し付けていなかったとしても、人は「なんとなく」で、イメージで「自己顕示欲」を批判したがるのではないだろうか。
「自己顕示欲」「ナルシズム」という言葉に対し自分の持つイメージだけで、簡単に批判したがるのではないだろうか。本当は誰もが少なからず持っているものだと言うのに。それも知らず批判したがるのではないだろうか。
そしてこれは、自己顕示欲、ナルシズムに対してのみではけしてないように思う。イメージだけで叩く、果たしてそれをしたことがない人間は存在するのか。
ともすると、人にはいわば「他己批判欲」と呼べるものが存在するのかもしれない。
他者を批判せずにはいられない、そんな欲がどこかに存在しているのかもしれない。
……なんてことをここまで書いて思ったので、ちょっと「他己批判欲」については今日のバイトのときにでも色々考えてみようと思う。